薩将 永山盛弘戦没の地
御船クリニックの駐車場
上益城郡御船町大字御船1050
永山は薩軍三番大隊長として従軍。衝背軍が日奈久、洲口に上陸したとの報が入ると、一隊を率いて応戦したが衆寡敵せず敗走しました。そして4月12日の御船の戦いにおいて、薩軍の敗北が決定的になると民家を老婆から譲り受け、家に火を放って自刃。40歳だったと云われています。碑の説明文には大小荷駄を務めていた税所篤信も永山に殉じた…と。
彼が下野したのは征韓論はなく、明治8年の樺太・千島交換条約の時でした。鹿児島に帰郷後も私学校とは深く関係を持たず、政府を批判する輩に「お前達は政府のことを知ってのことか?我々が思っていることが全て正しいとは言えぬぞ」と述べ、さらに「彼ら(明治政府)は日々進歩している」と彼らを諭しました。これらの発言が永山では無く、ほかの者が公言したら斬られていたかもしれません。しかし、永山は血気盛んな者達にも信頼されており、城下の老若男女からも慕われていました。これも永山の人柄でしょう。
御船の戦い~薩軍猛将・永山弥一郎の最期
黒田清隆参軍の指揮のもと、4月12日、官軍は一斉に攻撃を開始。宮地を発して緑川を強行渡河。緑川は死体で埋まり、血で染まったと言われる。
緑川を渡った官軍は、薩軍を攻撃。御船川に追い詰められた薩軍は、銃火を浴びて壊滅状態になった。薩軍は敗戦続きに気勢揚がらず、民家に放火して退却した。 この時、負傷を推して二本木本営から人力車で駆けつけた永山弥一郎は、敗走する薩軍兵士を叱咤激励していたが、挽回不能と見て、民家を買い取り、火を放ち、従容として切腹した。また、荷駄掛の税所在一郎も、彼に従って自刃した。
永山が民家を買い取った額は100円。当時立派な家が新築できる価格であった。
彼の人柄と壮烈な最期は、御船町郷土史の1ページを飾っている。