七本柿木台場薩軍墓地



植木町大字轟七本
木留・七本原付近で戦没した熊本隊や薩軍の墓地。熊本隊 城市郎ほか329名が埋葬されている。
明治13年政府が戦勝記念碑崇烈碑を建立すると、薩軍関係者はこの七本薩軍柿木台場跡に薩軍墓碑を建立した。この地で一度に寝込みを襲われた300余名の遺体がここに埋められたままだったからである。
田原坂方面の第六次総攻撃を3月20日と決めた官軍は、前日の19日に熊本隊の守備地である吉次峠をわざと攻めた。このため七本柿木台場にあった熊本隊は吉次峠へ援軍として走り、後を高鍋隊にゆずった。情報収集にもとづく官軍のおとり作戦はまんまと成功した。
 そして3月20日、夜中まで大雨が降り、朝方には濃いもやに田原坂は包まれていた。官軍の攻撃隊は午前五時、霧の中を各隊敵陣へ向かって出発。兵士は物音をたてずに前進することを命じられ、午前六時号砲三発の合図で一斉に敵陣に突入した。
七本薩軍柿木台場でも、兵士は安心し深い眠りについていた。もやの中から突然官軍の兵士が銃剣を突き立てて侵入、初陣の高鍋隊が驚きあわてていち早く逃げ、陣地は恐慌状態となった。寝込みを襲われた兵300程は官軍の銃剣に刺し殺され、あっけなくこの大陣地は崩壊したのである。 西南戦争最大の攻防戦は七本の陥落で幕を下ろした。