明治10年8月15日早朝、官軍は大武・粟野名・樫山・稲葉崎に渡る広い地域に布陣、一方の薩軍は、和田越を中心に無鹿(むしか)・長尾山を結ぶ稜線に陣を構え、両軍が激突。この時、樫山の山上では山県有朋中将、和田越では西郷隆盛が陣頭指揮を執った。官軍5,0000に対し、薩軍は3,000(鹿児島進発当初の薩摩軍兵力は1,3000余を数え、進軍の途中徴募して加えた兵力をあわせると延べ3.0000人を戦火に投じた薩摩軍であったが、開戦から半年を経過したこの時期すでに兵力の大半を失い、延岡における戦闘要員は3,000を数えるに過ぎなかった)、半日に渡る激闘の末、圧倒的な兵力を誇る官軍の攻撃の前に、薩摩軍は陣を支えきれなくなり、正午過ぎに北浦方面に敗走した。和田越の戦いに敗れた西郷隆盛は、明治10年8月15日から17日まで北川町俵野の児玉熊四郎宅を本営とした。
8月14日に延岡が陥落し、薩軍は北の和田越に追いやられた。西郷はこの西南役では一度も戦場に立つことがなかった。しかし、今回は自ら陣頭に立つと言ったのです。これには幹部達も驚き「ソイはいかんでゴワス。西郷どんの身に万が一のことがあれば大変でゴワス」と必死になって止めたが、西郷は「行きモス」と決意したので、皆も了承しました。
翌、15日小野家を出発した西郷は和田越に布陣した。兵士達も西郷が前線にいるのをはじめて見たのである。西郷どんはこの地で戦死するつもりだったのかも知れません。薩軍が全部隊同じ場所で戦闘をやるのは、この和田越が最初で最後と云われている。