長野原古戦場跡から腹切坂への途中にある
腹切坂の戦いで戦死した薩軍兵士をこの周辺の森に埋葬したと云われている。
田原坂大敗は「誤報」
26日早朝、官軍はその軍勢を本・支隊二つに分け、陣をしいていた鍋田車坂から攻撃を開始。第一次戦は薩軍、熊本協同隊の圧勝に終わった。
3月3日、薩軍は第一次戦の大勝を足掛かりとして南関進出を図り、官軍が堅守していた車坂を突破し、長野原、腹切坂を征服。さらに、夕刻には下岩、中老、下津田に進み、長い戦いの未これを破り、坂楠、十丁まで進出した。しかし、翌3月4日、これまで優位に戦闘を進めてきた薩軍に不運な出来事が立こった。田原坂方面に行った偵察隊が長野原の薩軍本営に帰ってくるなり「田原坂大敗」と告げたのである。あわてた薩軍はただちに全軍を撤退させて山鹿に戻る。かたや官軍は事情を飲み込めないままそれを追撃。盛り返して形勢を一気に逆転させる。山鹿に戻った薩軍を待っていたのは「田原坂大敗は誤報」という信しられない知らせであった。
騎馬で伝令を送っていたことがこの誤報になったのか、いずれにせよこのために薩軍の南関占領は失敗、その後の戦局に大きな影響を与えた。
兵力を増強した官軍の山鹿方面軍は本部を岩村の光行寺に置き、3月12日、山鹿進撃を開始する。その時すでに両軍の兵力は逆転し、官軍3,900に対し、確軍は田原坂に援軍を向けたために2,500に減少。官軍の山鹿突破は時間の問題と誰もが思いった。しかし、薩軍の反撃はすさまじく、官軍本隊も容易には落とせなかった。官軍は平山から兵をおこして、城、城原方面、さらに一部は津留正円寺の陣を占拠し、鍋田東にまで進出。しかし、本隊の攻撃がはかばかしくないことを知るや、兵を平山に引き上げさせ、この日の作戦を反省し、次の戦闘の準備を整えた。