宮崎八郎戦没ノ碑



萩原堤;R3号線荻原交差点よりR219号線へ左折し球磨川上流へ約500m
 宮崎八郎は薩軍と共に戦った熊本協同隊の参謀長に就任し、各地を転戦。衝背軍が八代を占領したとの報が薩軍本営に入ると、徴兵のため薩摩に戻っていた別府晋介、辺見十郎太らに急ぎ八代を奪還せよと命が下り、その伝令役に八郎が選ばれた。八郎は人吉で別府らと合流し、八代へ急行。薩軍は八代南東の山間で官軍を蹴散らし萩原へ進出しましたが、官軍の援軍が到着し形勢逆転。八郎も銃弾を受け戦死、27歳。
「宮崎八郎戦没ノ碑」 碑文
此処 荻原堤一帯は明治10年西南役に於いて田原坂と共に多数の死傷者が出た激戦地である。
当時、熊本協同隊の参謀長であった宮崎八郎は薩軍を援助して奮戦したが4月6日の佛暁 遂に此の地で戦没した時に弱冠27歳であった。