佐々友房之墓


熊本市黒髪小峰墓地
嘉永7年(1854年)1月23日、現在の熊本市内坪井町に肥後熊本藩士 佐々陸助の二男として、生まれた。同郷に横井小楠、宮部鼎蔵がいる。文久元年(1861年)藩校時習館に入る。水戸学に傾倒し、藤田東湖、会沢正志斎の著書に親しんだ。また池辺吉十郎(新聞人・池辺三山の父)の門下生だった。明治3年(1871年)藩政改革により、時習館が廃止となったので、林桜園の原道館に入塾する。明治7年(1875年)2月に江藤新平の佐賀の乱に参加しようと同志と謀っていたが、先輩に軽挙を戒められ断念した。神風連の乱には不参加だったが、明治10年(1877年)西南戦争が起こるや、かねて西郷隆盛と気脈を通じていた池辺吉十郎(熊本隊長)のもと、薩軍に身を投じた。西南戦争では小隊長として肥後、薩摩、日向の山野に転戦。この中でも吉次峠の戦いは、近くの田原坂とともに激烈を極めた。重傷を負うて入院し、宮崎の監獄に収監された。獄中で青年子弟を教育し、国家有用の人材を養うことが今日の急務であると決意し、明治12年(1879年)1月に出獄すると、熊本市高田原相撲町に同心学舎を設立し建学精神を皇室中心、国家主義を建学精神とした。後に同心学校と改め、明治15年2月に濟々黌と改称する。現在の熊本県立済々黌高等学校である。
 佐々は次いで言論界に進出した。熊本には、藩校時習館の出身者で固めた学校党(熊本藩時代の保守左幕派)を軸として結成された政治結社・紫溟会は明治15年(1882年)に「紫溟雑誌」、ついで「紫溟新報」を発刊し、佐々は顧問に名を連ねた。明治21年(1888年)「九州日日新聞」に改題し、社長を勤めた。明治22年1月熊本国権党を組織して、第一回帝国議会が開設されると、衆議院議員に立候補し当選を果たした。後に国民協会・帝国党・大同倶楽部に属する。明治39年(1906年)年9月28日没。享年52。