贈右大臣大久保公哀悼碑


東京千代田区;紀尾井坂 清水谷公園
 明治一一年(1878)五月一四日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に紀尾井坂の変と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。
また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち、西村捨三、金井之恭、奈良原繁らの間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治ニ一年(1888)5月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成しました。
哀悼碑の高さは、台座の部分も含めると六・ニ七メートルにもなります。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は硬砂岩と思われます。「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。 (碑文より)

紀尾井坂の変
 明治6年(1878)征韓論分裂後、政府を非難する徒は、大久保および岩倉具視・木戸孝允を恨むこと甚だしく、明治10年(1877)西南の役が起ると、その非難はさらに加わった。しかるに木戸は同年5月京都に病没し、西郷もその9月鹿児島の城山に自刃し、いわゆる維新三傑中、ひとり大久保のみが政府に留まって威望高く、冷徹な独裁政治家として多数の政敵をつくった。この日(明治11年5月14日)午前8時ごろ、麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出て、赤坂仮皇居に参朝の途、紀尾井坂下において、石川県士族島田一良・同長連豪・同杉本乙菊・同杉村文一・同平民脇田功一・島根県士族浅井寿篤の6名に襲われて刺殺された。馭者中村太郎も難に殉じた。島田らは罪五事を挙げた斬奸状を懐中にして自首したが、審問の後、7月27日6名は斬罪に、その他30名は禁獄終身以下に処された。明治17年(1884)有志は清水谷遭難の地に哀悼碑を建てた。