熊本協同隊長 平川惟一(のぶかず)戦死の地


山鹿市鍋田;国道443号線沿い
 熊本協同隊は300余人を率いて薩軍と共に戦っている。熊本協同隊・隊長の平川は自ら前線で指揮を取り兵士達を鼓舞したが、3月4日官軍の攻撃により29歳という若さで戦死した。
熊本協同隊とは、明治10年の西南の役の際、西郷軍に呼応して、熊本の保田窪神社で、山鹿の大森惣作が軍資金を出し、植木学校の参加者を中心に平川惟一・宮崎八郎・山鹿の野満兄弟等によって挙兵した集団である。彼らは、西郷軍と同じ思想ではなく、ルソーの民約論(中江兆民訳の時代)に基づいた政府の樹立を考えており、最終的には、西郷隆盛とも対決する覚悟をもっていたといわれている。ちなみに、この時期に呼応した士族や豪農商達は、明治新政府に対しての反感から西郷軍と共に闘った場合がみられ、たとえば、学校党の流れをくむ熊本隊などその思想的背景は様々であった。