山鹿市立博物館前から南へ300mほど離れた所
飫肥隊の山鹿における奮戦振りは多くの書物に語り継がれている。この周辺の墓地(明治10年以前にあった墓地)には弾痕の跡が残っており、当時の激戦を物語っている。
飫肥隊隊長 小倉処平について
1845年(弘化3年) 飫肥藩の中級藩士・長倉喜太郎のニ男として生まれ、少年期、藩校振徳堂に学ぶ。1871年(明治4年)2月~1873(明治6)年冬 官命によって、英国・フランスに留学するが、国内で征韓論が決裂したことを知ると急遽帰国。西郷隆盛らが下野すると、自らも飫肥に帰郷。1874年(明治7年)佐賀の乱が勃発。リーダーの江藤新平らを飫肥から土佐へ逃亡させ、その罪で禁錮刑に服すが、のちに大蔵省七等出仕となる。1877年(明治10年)2月西南戦争が勃発すると、飫肥隊の総帥として、人吉撤退後は野村忍介率いる奇兵隊の奇兵隊軍監として各地を転戦。8月15日の和田越の決戦で大腿部に銃創。敗走後、延岡市川坂の神田伊助氏宅に逃れて加療。神田伊助氏宅で加療中、西郷の可愛岳突囲を知った小倉処平は西郷の後を追ったものの果たせず、可愛岳登山口のある地区から南へ約1kmのところにある高畑山の中腹で自刃。8月17日、32歳。