明治十年戦役薩軍本営跡の碑


城山公園 「城山ドン広場」
公園駐車場から売店を通っていくと「城山ドン広場」に着く
この城山は西南役最後の戦場です。
8月17日、宮崎県長井村(現・延岡市)で包囲された薩軍は西郷自ら筆を執り解散令を出します。この解散令により党薩諸隊や負傷兵などが降伏しました。しかし、血気盛んな者達は降服を潔とせず、「最後の一戦を交える」、「囲みを破って再起を計る」などと言って聞きません。西郷はじめ幹部達は議論し「官軍の重囲を突破して再起を計る」に決定します。 同日17日の夜に長井村の後方にある可愛岳を突破し、上祝子方面へ消えていきました。官軍はあと一歩という所まで薩軍を追い詰めましたが、一瞬のスキを突かれ水泡に帰しました。 この可愛岳突破以降、険しい九州山脈を越え、官軍の追っ手を蹴散らしながらこの鹿児島の城山まで帰ってくるのは9月1日です。日付から見ると約2週間、約400キロの道のりです。現代人の我々には想像がつかないほどの強行軍だったと思います。
8月30日、横川を出発した薩軍は官軍の追っ手を巧みに誘い出し、或いは牽制しながら南下していきます。薩軍は隊を3隊に分けて、溝辺へ向かいました。しかし、ここにも官軍が陣を構えて薩軍の行方を捜していました。すでに官軍は軍艦で鹿児島に上陸し薩軍の行方を追っていたのです。この戦争の勝敗を決したのは「海軍力の差」と言っていいでしょう。官軍の予想以上の攻撃に薩軍は一計を案じ、溝辺と加治木の間道を通り吉野街道へ出る作戦に出ました。残る別働隊はこの地で官軍を牽制しながら、しかる後に合流することにしました。
8月31日、これが功を奏し、薩軍は吉野街道へ進出し、花棚や帯迫(鹿児島市、旧・吉野町)まで来ることができました。ここにも官軍が陣を構えて行方を捜していました。薩軍は迂回して伊敷へ向かい、城下へ入ろうとします。この日の攻防戦は薩軍の勢いが激しく、どちらが追捕されているか分からない状態だったと云われています。可愛岳突破以降、幾多の困難を切り抜けてこの地まで帰ってきたのです。彼らが奮い立つのも当然のことだったでしょう。
9月1日、薩軍は勢いに乗り、敵を蹴散らしながらついに城下に突入しました。官軍は仰天し、米倉(現在の鹿児島市役所)で防戦します。その間にも溝辺方面から進んでいた薩軍の別働隊が、郡山街道(日置郡)を経由して甲突川を越えて城下に入りました。
翌2日、薩軍はこの城山、私学校、島津邸、県庁などに陣を構えます。さらに前日の戦いで新撰旅団から頂戴した大砲を新正院などに配置し、砲撃を始めました。