西南役中津隊長 増田宗太郎先生誕生之地


中津市留守居町の「福澤旧居記念館」隣
増田は党薩中津隊を率いて各地を転戦した。この中津隊が決結成されたのは3月31日、熊本方面では薩軍が田原坂を突破され、さらに衝背軍が上陸して北上している時期だ。見方によっては薩軍の敗北が決定的になった、といってもいい頃だった。
増田はじめ数名の隊士は、薩軍の可愛岳突破後も付き従いました。 9月1日に鹿児島の城山に到着、9月4日、増田は城山の下にある米倉を襲撃し、戦死しました。(一説には捕虜になり刑死)
増田宗太郎
嘉永2年2月23日(1849年3月17日) - 明治10年(1877年)9月)
中津藩下士増田久行の嫡男。母は九州国学の三大家の一人、渡辺重名(しげな)の娘。父は福沢百助の妻のいとこ。
維新後は攘夷思想を改め自由民権運動にも参加。西南戦争に薩軍側として従軍、中津隊を率いた。和田峠の戦いで敗れた後、西郷が解軍の令を出し、故郷へ帰る隊もある中、西郷に付き従った。司馬遼太郎も著書で引用した「1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある」とは増田の言葉である。最後は城山の戦いで戦死したとも捕えられて斬首されたともいう。