延岡隊招魂碑


延岡市今山公園延岡市山下町1丁目、大正5年に建立された
延岡隊について
1877年2月23日 延岡隊を編成、参戦。「西郷発つ」の報は宮崎支庁(宮崎県は、前年に鹿児島県に併合)の旧延岡藩士・藁谷英孝支庁長から延岡の第6区区長・塚本長民に伝えた。旧藩士・大島影保以下第1陣130人余で延岡隊を編成、熊本を目指した。延岡隊は最終的には旧藩士556人、農兵840人余の合計1,400人余を数えている。
出発前、延岡隊は延岡経由で熊本に向かっていた飫肥隊に、弾薬2万5千発分を貸したそうです。延岡隊は当初、百貫石港(現熊本市)の警備をしていたが、4月20日の城東会戦に参加、官軍に大きな損害を与えた。しかし延岡隊も、城東会戦だけで死者18人、負傷者25人を出している。
その後は五ヶ瀬川沿いに交戦しながら後退、8月14日、官軍の延岡占領を知り、降伏した。
佐土原隊隊長;島津啓次郎について
 西南戦争が起こると、有司専制からの解放をめざし、父や兄の説得をも押し切り「吾人の為さんと欲する所を為すのみ」として佐土原の同志200余人とともに参戦した。
西郷は若く有為な人材ゆえに参軍を断ったが、島津啓次郎のひきいる佐土原隊は熊本の各地を転戦した。途中、単身上京して事態収拾の計画をたてたが成功せず、再度本隊と合流して可愛岳、三田井、椎葉、米良、小林を経て9月24日、西郷らとともに鹿児島の城山で21歳の生涯を終えた。