西南戦争(せいなんせんそう)とは

 西南戦争西南の役(せいなんのえき)とも言われ、1877年(明治10年)に鹿児島の士族が西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱です。
東京へ攻め入る足がかりとして1万3千人の薩軍は熊本城制圧を目指して出発しました。これが西南戦争の始まりです。

 では、なぜ、西郷隆盛率いる薩摩軍は新政府軍に戦いを挑んだのでしょうか。
それは、うんと分かりやすく言えば、明治維新後、新政府が急速に近代国家への改革を推し進めることに始まります。
そのひとつに、それまでの身分制度「士農工商」を廃し、四民平等を実現、元、侍であった士族には廃刀令が出されたのです。その処遇に、明治維新の兵となり命がけで戦った侍たちは、「こんな世の中にするために戦ったんじゃない」と、失望と同時に新政府に怒りを覚えたのです。硬派な勇猛多感な士族たちは、武士でありたかったのです。
つまり、腰に刀を差した「拙者」の意地と、ちょんまげから西洋風に身なりを変えた「紳士」の近代化思想が真っ向からぶつかり合うことになったのです。これが西南戦争の始まりです。

 明治10年2月15日、雪の降る朝、薩軍は13,000人の兵をあげ熊本を目指します。西郷隆盛はその2日後に出発しています。途中、九州各県の旧士族が部隊を編成して加わり、総勢は3万を越えたと言われています。政府軍も9個旅団(約9万)を投入し、熊本城周辺や田原坂で激戦を繰り広げました。熊本城での攻防は2月22日から52日間にわたりましたが、それでも熊本城を落とすことは出来なかったのです。とくに激戦と伝わる田原坂の戦いはあまりにも有名で、今なお現地を訪れる人が後を絶ちません。兵や兵器など全てに勝る政府軍の勢力に撤退せざるを得ず、西郷は自らが生まれ育った鹿児島に帰り、城山の洞窟に立て籠りました。
すでに味方は360人にまで減少し、対する敵軍(新政府軍)は5万。9月24日午前4時、新政府軍の総攻撃が始まるなか、西郷は覚悟を決め、自決したのです。

 かくして明治10年2月15日に鹿児島を出発した薩摩軍と新政府軍との戦い、「西南戦争」は同年9月24日にその幕が閉じられたのです。