川尻鎮撫隊本営跡


旧;川尻町奉行所跡(現在;熊本市立川尻小学校)
碑文より
西南の役に際し、川尻が薩軍の本拠となると、町役人は逃亡し入牢者は解放され無法の地となった。薩軍の徴発と無法者横行に苦しんだ町民達の再度にわたる懇願によって、半田村に隠棲していた元町奉行上田休は、遂に意を決して川尻の治安維持に当ることとし、門弟らを率いて鎮撫隊を結成して中立政策を標榜した。ここは当時鎮撫隊本営が置かれたところである。
  上田休は旧藩時代の川尻奉行であった。薩軍が川尻にやってきて本営を置いたとき、川尻町民は大変困っていた。そこで、上田休は「川尻鎮撫隊」という組織をつくり、町民の保護と治安維持にあたった。隊員が戦争に巻き込まれることを極力避けたため、薩軍から相当の圧力を受けた。西郷隆盛ひきいる薩軍から兵の募集をするよう依頼されても、断固拒否した。しかし、西南戦争後の裁判では、敵に協力したという冤罪を受け、死刑になった。