山野田一輔墓


山野田一輔は弘化元年に鹿児島西田で山野田嘉兵衛の第一子として生まれた。名は政養、通称は嘉惣次、彦助、のちに一輔という。明治10年(1878年)、薩軍が出兵を決するや、出兵に応じ、五番大隊(指揮長池上四郎)十番小隊長児玉八之進の斥候長となり、熊本に入った。4月21日に矢部浜町で編制替えがあったとき、奇兵隊一番中隊長となった。9月21日、山野田は河野主一郎とともに軍使となり、参軍川村純義に西郷救命の交渉をしに行ったが、聞かれず、河野は抑留されたが、23日に山野田は城山へ帰った。9月24日、政府軍の総攻撃を受けた薩軍将士40余名は西郷洞窟前に整列したのちに岩崎口に進撃した。途中、被弾した西郷の自決を見守ったのち、山野田ら残余の将士はさらに進撃し、岩崎口の一塁に籠もって交戦した。このとき山野田は岩崎口の塁にのぼるや、従容として切腹した。