永山盛弘墓


天保9年(1838年)、永山休悦の第一子として鹿児島荒田町に生まれる。名は盛弘、通称は弥一郎という。
 明治10年(1877年)、中原尚雄の西郷刺殺計画を谷口登太から聞いた高木七之丞邸の会合に弥一郎も同席し、憤激したが、出兵するか否かを決した私学校本校での大評議では大軍を率いての上京に反対し、西郷隆盛・桐野利秋・篠原国幹の三将が数名の供をつれて上京し、政府に問罪すべきと主張したが、西郷の身を案ずる意見が強く、策は入れられなかった。出兵に応じない弥一郎を最初、辺見十郎太が説得したが不調に終わり、仲が良かった桐野の熱心な説得で漸く同意した。出陣の際には桐野利秋が総司令兼四番大隊指揮長となり、弥一郎は三番大隊指揮長となって、10箇小隊約2000名を率いた。
 政府軍が八代に上陸し背面に迫ろうとするに及び一隊を率いてこれに向ったが御船の戦いに敗れ民家に入り火を放って自刃した。明治10年4月13日没 享年40歳。