別府晋介墓


明治10年(1877)、私学校本校の大評議で出兵に決すると、別府は加治木・国分・帖佐・重富・山田・溝辺郷の兵を募って六番大隊・七番大隊(この2大隊は装備が古く、人数も少なかった)を組織し、その連合指揮長となって先発北上した。
9月24日(城山陥落の日)、西郷の洞前に整列した40余名は岩崎口へ進撃し、途中、銃弾で負傷した西郷が切腹を覚悟すると、晋介は駕籠から下り、「ゆるしゃったもんせ」(お許しください)と叫び、西郷を介錯した。その後、弾雨の中で自決した。享年31。
『西南記伝』に別府晋介を「天資俊爽(しゅんそう)、言語明晰、胆気人に過ぐ、其陣に臨むや、強を挽き、駿を躍らせ、堅を摧(くじ)き、鋭を陥れ、輒(すなわ)ち身を以て衆に先ち、向ふ所前なかりしと云ふ」と評しているが、近衛将校のときに給料を配下の将校と平等に分け合ったという逸話も残っていて、欲のない公平な人柄を偲ばせる。