篠原国幹墓


南洲墓地;西郷隆盛の墓の左隣
明治10年(1877年)、弾薬庫襲撃事件と中原尚雄による西郷刺殺計画を聞いた篠原は政府問罪の師もやむなしとし、2月6日に私学校本校で行われた大評議では出兵に賛成した。出兵に際しては池上四郎が募兵、篠原が部隊編制、桐野利秋が各種軍備品の収集調達、村田新八が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練を担当した。2月13日の大隊編制では、桐野が総司令兼四番大隊指揮長、篠原が副司令格の一番大隊指揮長となった。
 3月4日、政府軍が吉次本道から薩軍を攻撃したので、篠原は外套を被り、銀装刀を揮い、陣頭に立って部隊を指揮した。このときの赤裏の外套が目印となって政府軍の狙撃を受けて戦死した。享年42。
 明治10年、西南戦争に、一番隊長として参加し、戦死、西郷は遺体を前に「お冬どん」と泣き崩れ、悲観にくれたそうです。