南洲墓地;篠原国幹墓の左隣
9月24日、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷隆盛・桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。途中で西郷が被弾し、島津応吉久能邸門前にて別府の介錯で自決すると、跪いて西郷の自決を見届けた村田らはさらに進撃し、岩崎口の一塁に籠もって交戦した。このとき村田も戦死した。享年42。
『西南記伝』二番大隊将士伝に村田新八を「新八、人と為り、状貌魁偉、身長六尺、眼光炯々(けいけい)人を射る、而も挙止深沈にして大度あり。西郷隆盛曾て篠崎五郎に謂て曰く『村田新八は、智仁勇の三徳を兼備したる士なり。諸君宜しく斯人を模範と為すべし』と。十年の役、軍議ある毎に、諸将会するや、隆盛先づ問て曰く『新八在らざる乎』と、西郷の為に推重せらるゝや、此の如し」と評している。勝海舟は「彼は大久保利通に亜ぐの傑物なり。惜哉、雄志を齎(もたら)して非命に斃れたることを」と評している。
村田は平生、美術を愛し、また音楽を好んだ。家にいるときはいつも風琴(アコーデオン)を携え、容易に手を離さなかったという。また、和歌も漢詩もつくる才人で、多くの作品や書簡が残っている。