六本楠;吉次峠の西側
3月4日、薩軍一番大隊長・篠原国幹の容姿を知っていた、官軍の江田国通少佐は、部下に命じ篠原を狙撃させた。弾は篠原に命中し、戦死した。また、江田も薩軍の猛攻撃を受けて戦死した。明治10年3月4日、薩軍一番大隊長篠原国幹は、緋裏の外套をまとい、銀装の太刀をおびて、率先陣頭に立って戦闘の指揮をとっていたが、顔見知りの同郷の後輩、近衛歩兵第一連隊第二大隊長江田国通少佐の指示する狙撃にあい東上の雄図むなしくこの六本楠の地にて戦死した。一方狙撃を指示した江田国通少佐もまた、報復の念に燃える薩軍の銃弾によって戦死、薩軍の猛撃により、官軍は高瀬に撤退した。この戦闘は激しく、この日官軍が撃った小銃弾は数十万発だったといわれる。この日以後官軍は吉次峠のことを「地獄峠」と呼んだ。(案内板より)