高月官軍墓地


玉東町の役場の向かいに玉東郵便局がある。その裏手にある。
 墓碑には氏名のほか、所属部隊・戦病死の年月日とその箇所・出身地が刻まれている。大阪、東京、広島、名古屋および熊本鎮台ならびに近衛所属で、熊本県出身者は少ない。明治10年の西南戦争の際、田原坂・吉次峠・横平山の激戦で戦死した官軍の墓で、将校44・下士官168・兵卒764・軍夫4・計980人が葬ってある。数ある官軍墓地のなかでも最大なもので、県の史跡として昭和52年10月11日に指定されている。
石材に砂岩が使用されているので、表面が剥離したり折れるなどしている。墓石の高さは士官103cm、下士官83cm、兵卒69cm、軍夫43cmと階級によって異なっている。




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高月官軍墓地 見取図



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宇蘇浦官軍墓地



宇蘇浦官軍墓地は、玉東町木葉小学校の西側に位置する。徳成寺東側の道を北へ進み、斜面を登りつめた処。高月官軍墓地とともに昭和52年に県指定の重要文化財となっている。
 西南戦争における官軍将兵および抜刀隊で活躍した警視等戦死者 (田原坂、横平山などでの戦死者)334人と軍夫13人が葬ってある。
 土佐の吉松秀枝少佐や兵士の鏡といわれた谷村計介伍長の墓もある。
抜刀隊について
 歴史上有名なのは明治10年の西南戦争における警視庁巡査抜刀隊がある。
 当初西郷軍が示現流で鳴らした斬り込み隊「抜刀隊」を編成し近代装備の政府軍を圧倒していた。明治を代表する将軍乃木希典大将も当時少佐として小倉連隊を率いて参戦していたが、西郷軍の村田三助の指揮する抜刀隊に攻め込まれ軍旗を喪失している。この西郷軍の抜刀隊に手を焼いた政府軍は士族出身兵を集めた五十名から成る抜刀隊を三月九日に横平山に投入、激しい斬り込みを敢行し奪取するも隊は壊滅。
 三月十三日南関・征討軍本営では、警視隊三百名から選抜された百名により警視・抜刀隊が結成され、さらに東京警視庁で選抜された警部・巡査約九百名が、司令官・大浦兼武のもと、警視庁巡査抜刀隊として田原坂に到着した。巡査抜刀隊には多くの旧会津藩士が戊辰の仇を晴らそうと参加していた。

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薩軍三勇士の墓


玉東町山北小学校に近く、県道バス停から右手の細い道を少し登ったところにある。
この案内板に沿って数十メートル行くと「薩軍三勇士の墓」はある。
 玉東町上白木の楢山、山野政治氏旧所有の地にある。藤坂吉左衛門宗隆、伊集院良義兼、山倉文左衛門義種の三勇士が葬られている。藤坂、伊集院の両士の命日は明治10年3月10日である。この日、薩軍は木葉の官軍を襲う目的で三ヶ小隊を木留の本営より出動させ玉東町西安寺の辺りで官軍と戦っている。この戦いで三ヶ小隊の中の萩原隊に10余名の死傷があった。藤坂、伊集院と次の山倉の三士は萩原隊士であったと思われる。山倉は3月10日戦傷し、山野家にかくまわれ、5月20日落命した。山野家では藤坂、伊集院両士の墓地に追葬した。現在の墓碑は昭和63年に新たに建てられたもの。三士の位牌は山野家で110余年間祀られてきた。


篠原国幹戦死の地


六本楠;吉次峠の西側
3月4日、薩軍一番大隊長・篠原国幹の容姿を知っていた、官軍の江田国通少佐は、部下に命じ篠原を狙撃させた。弾は篠原に命中し、戦死した。また、江田も薩軍の猛攻撃を受けて戦死した。明治10年3月4日、薩軍一番大隊長篠原国幹は、緋裏の外套をまとい、銀装の太刀をおびて、率先陣頭に立って戦闘の指揮をとっていたが、顔見知りの同郷の後輩、近衛歩兵第一連隊第二大隊長江田国通少佐の指示する狙撃にあい東上の雄図むなしくこの六本楠の地にて戦死した。一方狙撃を指示した江田国通少佐もまた、報復の念に燃える薩軍の銃弾によって戦死、薩軍の猛撃により、官軍は高瀬に撤退した。この戦闘は激しく、この日官軍が撃った小銃弾は数十万発だったといわれる。この日以後官軍は吉次峠のことを「地獄峠」と呼んだ。(案内板より)

佐々友房の漢詩


吉次峠(現在は公園化されている)
君不見吉次嶮々於城 突兀摩空路崢嶸
煙籠高瀬川辺水   風捲三嶽峯上旌
一朝伝警笑相待   忽聞千軍万馬声
硝煙為雲弾為雨   壮士一命鴻毛軽
吶喊声和巨砲響   山叫谷吼乾坤轟
砲声絶処松声寂   一輪皎月照陣営
訳;
君見ずや、吉次の険は城よりも険なり 突兀、空を摩して、路崢嶸
煙は籠む 高瀬川辺の水       風は捲く 三の嶽、峯上の旌
一朝、警を伝え 笑って相待たば   忽ち聞ゆ 千軍万馬の声
硝煙は雲を為し弾は雨となる     壮士の一命、鴻毛より軽し
吶喊の声は巨砲に和して響き     山叫び谷は吼え 乾坤轟く
砲声の絶ゆる処、松声寂かなり    一輪の皎月、陣営を照らす



谷村計介碑


吉次峠;公園中腹にある
谷村伍長は熊本城が薩軍に包囲されたとき、2月25日に連隊長の命令で城を脱出した。なべ炭を全身に塗りぼろを着て、農夫に変装し深夜城を出た。谷村伍長は本妙寺(熊本市)の裏山に出て、玉名市高瀬の官軍本営に向かった。途中薩軍に捕えられたが、運良くのがれた。また吉次峠では、佐々友房の隊にもつかまっている。しかし、2月28日高瀬の官軍本営に到着し、野津少将に城中の様子を報告し目的を達したのである。その後、3月4日田原坂の戦いに参加して戦死した。 年25才。
大正13年2月11日改めて功績をたたえ、従五位が贈られた。


吉次峠激戦の地


吉次峠は、明治10年の西南戦争で、「地獄峠」と恐れられた場所。
田原坂、横平山、二俣、半高山、吉次峠と結ぶ線上で、官軍と薩軍の激しい戦いが繰広げられた。4月1日官軍の進攻を阻止していた半高山が破れたため、佐々友房は吉次峠の守りを撤去して、三の岳山中に陣を移した。
 明治10年2月26日、寺田の戦いに敗れた熊本隊一番小隊長佐々友房は撤退しこの吉次峠に拠る。佐々は慨然として隊士に向かい 「あゝ吉次は城北随一の要害である。今これを失えば百の西郷あるともなお熊本を保つべからず。」 という。従う者感泣して倶に死守を誓う。佐々は刀にて傍らの木を削り、「敵愾隊悉死此樹下」と刻して防備にあたった。4月1日官軍進出し、攻め上る官軍を阻止していたが、半高山が破れて、さしも地獄峠と恐れられた吉次峠の守りを撤して三ノ岳山中に陣を移した。
 また熊本鎮台の密使伍長谷村計介はこの附近の山中で捕えられたが逃走して3月2日船隈の官軍本営にたどり着き使命を果たした。計介の記念碑は参道の中腹にある。


半高山戦跡


半高山(はんこやま)は、西南戦争で、薩摩軍と官軍が激しく戦った場所である。 玉東町の南側、原倉本村の東に位置し、吉次峠と向かい合っている山である。半高山という意味は、金峰山系三の岳681mのおよそ半分の高さ294mだからこう呼ばれている。
明治10年3月3日、官軍は払暁の濃霧を利用して、この山を不意に襲い、右翼に支援部隊を増加して、山麓の火砲の援護射撃により占領した。しかし、薩将村田、篠原は逆襲して奪回した。4月1日植木方面の交戦がしばらく止んだ。この間、官軍は吉次付近を急襲して一挙に木留を突破して熊本に進出せんと、二俣横平山より前進して半高山頂の薩軍陣地に肉迫した。薩軍もこれを察知して激戦となる。元来薩軍の困るものが3つあり、1つは雨、2つは赤帽、3つは大砲といわれ、赤帽とは近衛兵で、それは近衛兵の勇敢さをいったものである。官軍は 「近衛兵の名誉を汚すな。」と叱咤激励して薩軍に突入した。このため薩軍も遂に木留方面に敗走した。(案内板より)


西南戦争当時の塹壕跡


横平山
官軍と薩摩軍の抜刀隊がはじめて活躍した場所。5~6mの位置で向かい合い、交戦したとのことです。官軍の死傷者は、224名と現地での案内板に記されている。


横平山激戦の跡


熊本県玉名郡玉東町二俣
 横平山は、玉東町の東部に位置する
熊本自然休養林の県指定をうけ、昭和48年県立公園施設設備の一環として展望台が完成。田原坂と隣接し、遠く阿蘇の連峰を望む景観はすばらしく、春から秋にかけてハイキングに最適の場所。
 横平山は標高104mの小高い山で、南の三の岳から吉次峠、半高山と北に連なりその末端に位置する。明治10年の西南戦争ではこの横平山の争奪戦は最も熾烈を極めた。薩軍の切込み隊と官軍の警視抜刀隊の白兵戦の死屍は山を覆い、その惨状は西南戦争の中の三大激戦の一つにあげられる激しいものであった。 明治10年3月4日より二俣口の戦いが始まったが、連日の一進一退の戦況で、3月9日官軍は横平山を占領すれば二俣・七本・田原坂を突破することが容易であると認識した。この日より横平山の争奪戦が連日繰り返され、3月15日、官軍が占領するまで、激しい戦いが続いた。


西南役砲兵陣地跡


玉東町立岩地区
道標の右手にみかん畑に通じる農道がある。その農道を100m程進めば視野が開け、石柱が見えて来る。それが「西南役砲兵陣地跡」である。
明治10年2月の高瀬・山鹿方面に展開して戦った薩軍は、27日の高瀬付近での戦いを最後に敗れた。そこで薩軍は退き、山鹿・田原・吉次方面で陣を張った。吉次峠を守る薩軍の前衛基地となったのが、原倉立岩である。
 ここは、熊本から高瀬に通じた主要な道路であった吉次往還沿いの高台にあって、官軍の進攻を阻止するのに適当な場所。官軍は、高瀬での勝ち戦に乗じて3月3日各方面に総攻撃を開始した。吉次方面には、野津大佐が率いた第二旅団の支援によって、午前10時、砲隊の援護射撃の支えもあって攻撃が始まった。
 立岩に砲塁を築いて守る薩軍も、篠原国幹が率いる四小隊の約800人と砲三門をもって応戦した。しかし、木留にあった本隊の応援が遅れて防戦むなしく、午後3時には兵器の装備と数量で官軍に劣っていたにもかかわらず、砲一門を捨てて吉次峠に退去したのである。

西南役官軍砲兵陣地


玉東町山北小学校前バス停から吉次峠方面へ県道を進むと、途中、道路右側に「官軍砲陣地跡入口」という白い道標が立っている。 ここから坂を100m程上った、みかん畑の中に碑は建っている。

官軍砲兵陣地跡


玉東町二俣・瓜生田(うりうだ);玉東町中央公民館から、二俣へ向けて東へ直進。やがてなだらかな坂が1kmほど続く。途中に小さな地蔵堂がある。ここで左折すれば、突き当たりに石碑がある。
 二俣東は台地になっていて、西南戦争における横平山・吉次峠・田原坂に通じる重要な場所。明治10年3月27日の高瀬付近の戦いに敗れた薩軍は、この後守勢の作戦をとり、吉次峠、田原、山鹿方面に陣を配置して南下する官軍を迎え撃つこととした。官軍は木葉の戦いに続いて、3月4日二俣村に到着した。この日から、官軍は田原坂正面からの主力攻撃を続けるが、一進一退の状況であり、いたずらに死傷者の数のみ増えた。3月7日には、主力攻撃を田原坂正面から二俣正面に変更した。
 官軍はここ瓜生田に砲兵陣地を置き、砲8門の内ここに3門、近くの古閑原に3門、中間に2門を配置して、田原や七本方面の薩軍を砲撃した。多いに戦果をあげるが、大砲は昼は戦闘にあたり、夜は薩軍の奪取をおそれて木葉まで運んだといわれている。

薩軍兵站跡


横平山の登山道沿い
 明治10年の西南戦争において、飲料水として使用された井戸(湧水池)。 兵站(へいたん)というのは、軍隊の後方にいる支援部隊のことで、食料・水・武器・弾薬等を補給する。薩軍も官軍も負傷兵は、水を求めてこの湧水池にたどりつき、何百という兵がここで絶命したということだ。
 軍兵站の地(説明書きより)
明治10年(1877)3月9日、官軍は二俣から南方の五郎山を攻撃した。突破できずに後退したが、横平山の重要性を見て、この山を攻撃、三つの薩軍陣地を奪取した。この横平山を官軍が完全に占領すれば、二俣・七本・田原坂を突破することが容易となり、この日よりこの横平山をめぐって一進一退の争奪戦が連日くりかえされた。その間、守る者も攻める者も飲料水はこの湧水だけなので、官薩両軍の負傷兵は、この湧水池にたどりつき絶命し、この附近に死体が幾百とも数知れず、そのためにこの湧水池も負傷兵の血で真っ赤に染まっていたといわれる。

田原坂官攻撃軍第一線の碑


玉東町境木;国道208号線沿い
境木バス前(産交バス)
 この史跡から細い道が東に伸びている。この道が西南戦争当時のままの高瀬往還である。荷車が通れるほどの道だが、当時のもっとも広い道であり、大砲や補給物資を運びながら熊本へ向かうにはここしかなかった。そのためには、ここから豊岡の眼鏡橋を渡り、田原坂を登らなければなかった。
 勇んで坂をめがけて駆け去った兵は、やがて傷つき命からがらここにたどりついた。特に3月4日から3月20日までの17日間、田原坂と二俣台地では激しい戦いが繰り返されている。

徳成寺(官軍病院跡)


場所は玉東町木葉小学校の近く、西側に位置する。
宇蘇浦官軍墓地への道沿いにある。
 徳成寺(とくじょうじ)は、正念寺と同様、明治10年の西南戦争の時、負傷した数多くの兵士を収容・治療した病院跡。
碑文より「日赤発祥之地
 明治十年,西南役之田原坂戦ニ際シ,官軍ハ三月中旬,木葉ノ徳成寺,正念寺,境木ノ民家ニ大小ノ包帯所ヲ設ケ戦傷兵ノ治療ニ当ルモ軍医ノ員数足ラズ,コレヲ知リタル木葉ノ宗,田尻,安成ノ三開業医ハ直に其ノ門弟ヲ率イテ来リ軍医ヲ援ケ日夜将兵ノ手当ニ従事ス,偶戦況視察ニ来レル元老院議官佐野常民,大給 恒ノ両氏ハ町医者ノ献身的ナル行為ニ感激シ,博愛社ノ結成ヲ決意シ,五月三日,征討総督有栖川宮熾仁親王ニ願出ヅ 即日許可セラレタリ,博愛社ハ後ニ日本赤十字社トナリ ソノ病院モ二十年,日本赤十字病院ト改メ,陸軍々医総監橋本綱恒コレガ初代院長トナル。実ニ木葉ハ日赤発祥ノ地ナリ」

正念寺(官軍病院跡)


玉東町木葉の役場から東へ約200m、国道208号線沿い。
明治10年の西南戦争の時、徳成寺と同様に負傷した数多くの兵士を収容・治療した病院跡。
 玉東町は「日本赤十字社」の発祥の地と言われている。これは、敵味方の区別なく兵士の手当てをしたためである。当時は「仮包帯所」と呼ばれていたようだ。
山門の左手に、記念碑が建てられている。

征討総督有栖川宮御督戦阯


玉東町役場の駐車場から、交番の横を歩いて約5分の所
 ここは「丸田公園」になる。西南戦争において、全軍を統率された征討総督有栖川親王が、木葉城跡のこの台地にしばしばおいでになり御督戦に努められたところといわれている。昭和47年4月1日、町の文化財に指定されている。この巨大な石柱には、細川護立の書で「征討総督有栖川宮御督戦阯」と彫ってある。
この台地一帯は南北朝の時代、木葉の地頭職宇都宮一族の居城で宇都宮城とも呼ばれている。太平記では、正平14年(1359)筑後川の戦いで宇都宮三河守隆房が戦死したと伝えられています。
ここからは田原坂、二俣、横平山の激戦の様子が望まれ、遠くは三の岳、吉次、半高山までも見渡すことができて督戦の地として絶好の場所といえる。

乃木少佐奮戦の地


熊野座神社鳥居の右手
明治10年2月22日、小倉駐屯の熊本鎮台歩兵第14連隊(連隊長乃木少佐)は、南関・高瀬を経て熊本へ前進中、植木南方1kmの向坂にて薩軍より攻撃をうけて敗れ木葉に撤退した。この戦いで連隊旗手河原林少尉は戦死、連隊旗を奪われた。
翌23日、木葉の戦いで第三隊長吉松少佐の戦死もあって、この地に後退して奮戦したが、北方の木葉山頂より薩軍の一隊が急襲したので、白兵相打つ混戦となり、乃木少佐は薩摩兵に囲まれた。乃木少佐の乗馬も銃弾に倒れ、少佐も転倒した。薩軍刀をふるって迫り、少佐を斬らんとした。大橋伍長その間に入り斬られ少佐を助けた。摺沢少尉試補もまた助勢したしたので、九死に一生を得て木葉川を渉り、寺田山にのがれ、更に高瀬北方5kmの川床にて隊を集結した。 (説明板より)
乃木は陸軍入隊後、少佐、連隊長として秋月の乱・萩の乱、つづいて西南戦争に従軍している。秋月・萩の乱では精鋭ぞろいの第一連隊を率いて士族軍をすみやかに鎮定した乃木であったが、当時最強の野戦軍とみられていた薩軍が優勢を誇る熊本戦線に送り込まれた西南戦争では、しばしば包囲されるなど苦戦をつづけた。

薩軍砲兵陣地跡


玉東町稲佐;熊野座神社境内
乃木少佐奮戦の地の隣にある鳥居から階段を登った熊野座神社境内に「薩軍砲兵陣地」の跡がある。
2月23日木葉の戦いに勝利し、稲佐に進軍した薩軍はこの周辺を前哨基地とし、砲を構えた。しかし、高瀬の戦い敗れた後、進軍を開始した官軍の攻撃によりこの地から後退し、さらに木葉も奪回されて田原坂に布陣、激戦・田原坂の戦いがはじまった。