辺見十郎太墓


辺見十郎太は嘉永2年、鹿児島荒田町で辺見仲直の子として生まれた。名は昌邦、通称を十郎太という。身長は6尺(180㎝)あり、薬丸自顕流の達人であった。
 9月24日、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷隆盛・桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。途中で西郷隆盛が被弾し、島津応吉久能邸門前にて別府晋介の介錯で自決すると、跪いて西郷の自決を見届けた辺見らはさらに進撃し、岩崎口の一塁に籠もって交戦し、別府と差し違えて死んだ。
『西南記伝』三番大隊将士伝に辺見を評して「十郎太の軍に臨むや、驍悍猛鋭(ぎょうかんもうえい)、当たるもの皆摧(くだ)け、向かふ敵無し。官軍、十郎太の名を聞き、戦慄し、逡巡(しゅんじゅん)進まざるに至る。故を以て、士卒皆其部下に出でんことを願はざるはなかりし」という。