桐野利秋誕生地より約100m
弘化4年(1847年)、鹿児島吉野実方で別府十郎の第二子として生まれる。名は景長、通称を晋介という。長兄は別府九郎。 従兄の桐野利秋(中村半次郎)とは実の兄弟以上に仲が良かった。
明治10年(1877)、私学校本校の大評議で出兵に決すると、別府は加治木・国分・帖佐・重富・山田・溝辺郷の兵を募って独立大隊(後に六番大隊・七番大隊)を組織し、その連合指揮長となって先発北上した。
9月24日(城山陥落の日)、西郷の洞前に整列した40余名は岩崎口へ進撃し、途中、銃弾で負傷した西郷が切腹を覚悟すると、晋介は駕籠から下り、「御免なったもんし(お許しください)」と叫び、西郷を介錯した。その後、弾雨の中で自決した。桐野利秋と同じ方限で生まれる。