村田新八誕生之地


鹿児島市加治屋町10番1号;鹿児島中央高校南西角
 天保7年(1836年)11月3日、薩摩国鹿児島城下上加治屋町高見馬場で高橋八郎の第三子として生まれ、幼にして村田十蔵(経典)の養子となった。初めの名は経麿、のち経満(つねみつ)に改む。通称を新八という。三男一女あり、長男の岩熊と次男の二蔵はともに西南戦争に従軍して戦死した。
『西南記伝』二番大隊将士伝に村田新八を「新八、人と為り、状貌魁偉、身長六尺、眼光炯々(けいけい)人を射る、而も挙止深沈にして大度あり。西郷隆盛曾て篠崎五郎に謂て曰く『村田新八は、智仁勇の三徳を兼備したる士なり。諸君宜しく斯人を模範と為すべし』と。十年の役、軍議ある毎に、諸将会するや、隆盛先づ問て曰く『新八在らざる乎』と、西郷の為に推重せらるゝや、此の如し」と評している。勝海舟は「彼は大久保利通に亜ぐの傑物なり。惜哉、雄志を齎(もたら)して非命に斃れたることを」と評している。
村田は平生、美術を愛し、また音楽を好んだ。家にいるときはいつも風琴(アコーデオン)を携え、容易に手を離さなかったという。