玉東町立岩地区
道標の右手にみかん畑に通じる農道がある。その農道を100m程進めば視野が開け、石柱が見えて来る。それが「西南役砲兵陣地跡」である。
明治10年2月の高瀬・山鹿方面に展開して戦った薩軍は、27日の高瀬付近での戦いを最後に敗れた。そこで薩軍は退き、山鹿・田原・吉次方面で陣を張った。吉次峠を守る薩軍の前衛基地となったのが、原倉立岩である。
ここは、熊本から高瀬に通じた主要な道路であった吉次往還沿いの高台にあって、官軍の進攻を阻止するのに適当な場所。官軍は、高瀬での勝ち戦に乗じて3月3日各方面に総攻撃を開始した。吉次方面には、野津大佐が率いた第二旅団の支援によって、午前10時、砲隊の援護射撃の支えもあって攻撃が始まった。
立岩に砲塁を築いて守る薩軍も、篠原国幹が率いる四小隊の約800人と砲三門をもって応戦した。しかし、木留にあった本隊の応援が遅れて防戦むなしく、午後3時には兵器の装備と数量で官軍に劣っていたにもかかわらず、砲一門を捨てて吉次峠に退去したのである。