吉次峠激戦の地


吉次峠は、明治10年の西南戦争で、「地獄峠」と恐れられた場所。
田原坂、横平山、二俣、半高山、吉次峠と結ぶ線上で、官軍と薩軍の激しい戦いが繰広げられた。4月1日官軍の進攻を阻止していた半高山が破れたため、佐々友房は吉次峠の守りを撤去して、三の岳山中に陣を移した。
 明治10年2月26日、寺田の戦いに敗れた熊本隊一番小隊長佐々友房は撤退しこの吉次峠に拠る。佐々は慨然として隊士に向かい 「あゝ吉次は城北随一の要害である。今これを失えば百の西郷あるともなお熊本を保つべからず。」 という。従う者感泣して倶に死守を誓う。佐々は刀にて傍らの木を削り、「敵愾隊悉死此樹下」と刻して防備にあたった。4月1日官軍進出し、攻め上る官軍を阻止していたが、半高山が破れて、さしも地獄峠と恐れられた吉次峠の守りを撤して三ノ岳山中に陣を移した。
 また熊本鎮台の密使伍長谷村計介はこの附近の山中で捕えられたが逃走して3月2日船隈の官軍本営にたどり着き使命を果たした。計介の記念碑は参道の中腹にある。