肥猪町官軍墓地


南関町には肥猪と肥猪町が存在し、地元ではどちらのほうも「こえ」と略して呼称する人もいるようです。官軍墓地があるのは肥猪町です。訪れる際は間違わないようにご注意ください。
肥猪町字十時(こえいまちあざととき)にある。明治10年2月に起きた西南の役の際、薩軍と交戦して死亡した政府軍の将兵180柱を埋葬。その大半は鍋田の戦闘で戦死した将兵である。
昭和52年10月西南の役100年を記念して県指定史跡となる。
明治10年3月12日及び15日の両日、鍋田、平山の戦闘で戦死した、熊本・広島・名古屋の各鎮台及び近衛所属の将兵が埋葬されている。



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城ノ原官軍墓地


城ノ原官軍墓地は南関町役場の北側、標高100mの小高い台地、鷹の原城跡内にある。
ここには、主に木葉、高瀬方面で戦死した官軍兵士177名が埋葬されている。戦争当時は野戦病院となっていた西宗寺に仮火葬されていたが、明治11年にこの地へ本葬された。 (説明板より)
墓石には階級・氏名のほか死亡事由や所属部隊名、出身地などが刻まれている。

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高月官軍墓地


玉東町の役場の向かいに玉東郵便局がある。その裏手にある。
 墓碑には氏名のほか、所属部隊・戦病死の年月日とその箇所・出身地が刻まれている。大阪、東京、広島、名古屋および熊本鎮台ならびに近衛所属で、熊本県出身者は少ない。明治10年の西南戦争の際、田原坂・吉次峠・横平山の激戦で戦死した官軍の墓で、将校44・下士官168・兵卒764・軍夫4・計980人が葬ってある。数ある官軍墓地のなかでも最大なもので、県の史跡として昭和52年10月11日に指定されている。
石材に砂岩が使用されているので、表面が剥離したり折れるなどしている。墓石の高さは士官103cm、下士官83cm、兵卒69cm、軍夫43cmと階級によって異なっている。




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高月官軍墓地 見取図



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高瀬官軍墓地合祀塔


高瀬官軍墓地は埋葬の状況が確認される数少ない存在である。
西南戦争での官軍戦死者は数千名にものぼり、重要拠点として激戦地となった高瀬にも官軍墓地が設置された。
玉名市の割烹料亭「天運」の駐車場前道路から100mほど先。現在は公園になっているが、もとは墓地。昭和41年に、このように整備された。
碑文には次のように書かれている。「・・・星霜多年を重ねしを以って墓標は破損し、或いは亡失して其の状態を保持すること能はざるに至る。依って将来を慮り、全遺骨を納めて建立し・・・」 昭和41年2月この合祀塔の左右に、戦没者の名前が書かれたものがある。100名近くの方の出身県・氏名・所属等が詳しく書いてある。

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宇蘇浦官軍墓地



宇蘇浦官軍墓地は、玉東町木葉小学校の西側に位置する。徳成寺東側の道を北へ進み、斜面を登りつめた処。高月官軍墓地とともに昭和52年に県指定の重要文化財となっている。
 西南戦争における官軍将兵および抜刀隊で活躍した警視等戦死者 (田原坂、横平山などでの戦死者)334人と軍夫13人が葬ってある。
 土佐の吉松秀枝少佐や兵士の鏡といわれた谷村計介伍長の墓もある。
抜刀隊について
 歴史上有名なのは明治10年の西南戦争における警視庁巡査抜刀隊がある。
 当初西郷軍が示現流で鳴らした斬り込み隊「抜刀隊」を編成し近代装備の政府軍を圧倒していた。明治を代表する将軍乃木希典大将も当時少佐として小倉連隊を率いて参戦していたが、西郷軍の村田三助の指揮する抜刀隊に攻め込まれ軍旗を喪失している。この西郷軍の抜刀隊に手を焼いた政府軍は士族出身兵を集めた五十名から成る抜刀隊を三月九日に横平山に投入、激しい斬り込みを敢行し奪取するも隊は壊滅。
 三月十三日南関・征討軍本営では、警視隊三百名から選抜された百名により警視・抜刀隊が結成され、さらに東京警視庁で選抜された警部・巡査約九百名が、司令官・大浦兼武のもと、警視庁巡査抜刀隊として田原坂に到着した。巡査抜刀隊には多くの旧会津藩士が戊辰の仇を晴らそうと参加していた。

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岩川官軍墓地(上馬場墓地)


 官軍墓地は、明治10年(1877)夏、西南の役で倒れた官軍の戦死者を葬ったもので、この上馬場墓地に74基の墓石が残っています。 同年7月8日百引での戦いで戦死した人が半数を占め7つき11日・12日、野方方面で戦死した人がそれに次ぎ、岩川では4人戦死しています。他は都城陸軍病院等で晩秋までに戦病死した人たちです。 戦死者の出身地は、遠くは山形、秋田、宮城、福島、石川県など、近くは福岡、熊本でほぼ全国に及んでいます。
 (説明板より)
 現在は、近くに住む老人クラブの皆さんがお花をあげたりされているそうです。



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陣内官軍墓地


陣内官軍墓地は水俣市の城山公園にある。
 (陣内阿蘇神社裏手;旧薩摩街道沿い)
墓碑数は42基あり、大半が6月18日の鹿児島県大口市の高隈山の戦いで戦死した東京、名古屋、大阪の鎮台兵、及び近衛所属の将兵の墓碑である。(説明書より)
高隈山の戦いにおける薩軍の攻撃といえば・・・弾薬不足により、多くの石を担いでは攻め上る官軍に投石していたと・・・云われている。

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