西南之役戦歿者慰霊塔


南洲神社;鹿児島市上竜尾町
西郷隆盛の偉徳を敬崇してその墓に参る者が年々増加したことから、明治13(1880)年、南洲墓地の隣に参拝所が設けられた。大正11年6月28日、「南洲神社」として無格社に認定された。昭和20年に戦災で焼失し、昭和25年9月に再建された。
6,750名の名がそこに刻まれている。


西南の役記念碑


兵庫県姫路市地内町1-1
姫路船場本徳寺境内
 明治10年の西南の役で姫路営所の戦歿兵767名の霊を弔うために建設されたもの。明治12年、薬師山上に竣工したが、昭和41年琴陵中学校を建設するため、船場本徳寺境内に移設された。


贈右大臣大久保公哀悼碑


東京千代田区;紀尾井坂 清水谷公園
 明治一一年(1878)五月一四日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に紀尾井坂の変と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。
また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち、西村捨三、金井之恭、奈良原繁らの間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治ニ一年(1888)5月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成しました。
哀悼碑の高さは、台座の部分も含めると六・ニ七メートルにもなります。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は硬砂岩と思われます。「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。 (碑文より)

紀尾井坂の変
 明治6年(1878)征韓論分裂後、政府を非難する徒は、大久保および岩倉具視・木戸孝允を恨むこと甚だしく、明治10年(1877)西南の役が起ると、その非難はさらに加わった。しかるに木戸は同年5月京都に病没し、西郷もその9月鹿児島の城山に自刃し、いわゆる維新三傑中、ひとり大久保のみが政府に留まって威望高く、冷徹な独裁政治家として多数の政敵をつくった。この日(明治11年5月14日)午前8時ごろ、麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出て、赤坂仮皇居に参朝の途、紀尾井坂下において、石川県士族島田一良・同長連豪・同杉本乙菊・同杉村文一・同平民脇田功一・島根県士族浅井寿篤の6名に襲われて刺殺された。馭者中村太郎も難に殉じた。島田らは罪五事を挙げた斬奸状を懐中にして自首したが、審問の後、7月27日6名は斬罪に、その他30名は禁獄終身以下に処された。明治17年(1884)有志は清水谷遭難の地に哀悼碑を建てた。

大久保利通内務卿遭難現場の紀尾井坂付近


東京千代田区;紀尾井坂
この坂を下った所に清水谷公園がある。


大久保利通像


銅像は没後100年を記念して、昭和54年9月26日に設置された。中村晋也氏の制作。台座からの高さは9.7m(像のみは4.3m)。

鹿児島市高見橋左岸
雅号:甲東
座右の銘:「為政清明」、「堅忍不抜」
身長:178cm 体重:65kg 血液型:O型
従一位 勲一等旭日大綬章


大久保利通生い立ちの地


鹿児島市加治屋町23
「維新ふるさと館」裏手
大久保利通は、幼少期に高麗町から下加治屋町に引越しをし、7歳のときに入った郷中に3つ年上の西郷隆盛がおり、共に過ごしている。


大久保利通誕生之地


甲突川に架かる高麗橋より右岸沿い
ナポリ通りを約200m下った地点
 文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳の次女・福の長男として生まれる。
 明治10年(1877年)には、西南戦争で政府軍を指揮した。 その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていたが、明治11年(1878年)5月14日、石川県士族島田一郎らにより紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)(享年49〈数え年〉、満47歳没)。 墓所は東京都の港区の青山霊園


丁丑役薩軍戦亡者之碑


御召覧公園内;鹿児島市吉野町字百人掘 北部保健センター裏

 桐野利秋、別府景長、山之内種国
池水寿蔵、津留正雄 等の名前が刻まれている。碑文は河野主一郎の書による。


西郷隆盛銅像


鹿児島市城山町4
市立美術館前
 この銅像は、郷土出身の彫刻家 安藤照が習志野の大演習で陸軍大将の制服を身につけた西郷の姿を思い描き制作したものです。 (説明板より)
銅像所在地; 鹿児島市城山町4-36
概要説明
貧しい下級武士の子として鹿児島城下に生まれた西郷さんは、名君島津斉彬の薫陶を受け、倒幕そして明治維新という大事業へ向けて東奔西走しました。 その間、奄美大島や沖永良部島に流されるなど、さまざまな苦労もありましたが、江戸城の無血開城はじめ明治の新政府樹立に大きな功績がありました。
後に、私学校を開設し子弟教育に専念します。 そして、西南戦争の大将として新政府軍と戦いますが、田原坂の敗北、城山で自刃と、巨星は50年の熱い生涯を閉じました。
銅像は安藤照氏によって制作され、昭和12年5月23日に設置されました。
銅像本体は5.76mで、台石を含むと8mにもなります。


西郷南洲翁宅地跡


鹿児島中央駅よりナポリ通りを東へ
約400m、上之園町;共研公園内
 安政2年(1855)12月より明治2年(1869)7月までの約14年間の居所


西郷隆盛誕生之地


加治屋町4
維新ふるさと館東、秋葉神社前
文政10年12月7日〈1828年1月23日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛(のち吉兵衛隆盛に改名、禄47石余)の第一子として生まれる。
身長:182cm 体重:114kg 血液型はB型 喫煙者であるが酒は弱く下戸であった。


西郷屋敷跡


鹿児島市武町;西郷公園内
 西郷南州が明治6年、中央の征韓論に敗れ帰郷し、この地、武村に居を構えた。
明治の功臣達が贅沢な暮らしをしている時、最も功績のあった西郷は、おごる事無く質素な作りの屋敷に住み、田舎へ犬をつれて狩に行ったり、 又 私学校を作り 若者達の教育に励んだ。
この武町には、明治2年7月に上之園町から転居している。


川路利良銅像


鹿児島県警本部前(鹿児島市鴨池新町10番1号)
 大警視 川路利良(1834~1879)
大警視川路利良の没後120年に当たりその遺徳を讃え 多くの有志の浄財により 之を建立する
1999年10月 鹿児島県警察本部長 小野次郎
製作 日本芸術院会員 中村晋也(銘板より)
 碑文より
明治初期、我が国近代警察の創設に半生を捧ぐ。
二度にわたりフランス等欧州諸国を歴訪し、警察制度を研究。彼の「聲無キニ聞キ 形無キニ見ル」の精神は 現代の警察官に受け継がれる。川路と彼に従った幾千もの郷土の若者たちによって日本警察の礎が築かれた。警視庁初代大警視(警視総監)
明治7年(1874年)大警視となり、大久保利通の主要側近の一人として治安維持・情報収集にあたり、その一方、警察制度の整備に功績も残した。
明治10年(1877年)別働旅団を率いて西南戦争に参加。
翌年、欧米視察の途中病気のため帰国、まもなく没した。享年46歳。


村田新八誕生之地


鹿児島市加治屋町10番1号;鹿児島中央高校南西角
 天保7年(1836年)11月3日、薩摩国鹿児島城下上加治屋町高見馬場で高橋八郎の第三子として生まれ、幼にして村田十蔵(経典)の養子となった。初めの名は経麿、のち経満(つねみつ)に改む。通称を新八という。三男一女あり、長男の岩熊と次男の二蔵はともに西南戦争に従軍して戦死した。
『西南記伝』二番大隊将士伝に村田新八を「新八、人と為り、状貌魁偉、身長六尺、眼光炯々(けいけい)人を射る、而も挙止深沈にして大度あり。西郷隆盛曾て篠崎五郎に謂て曰く『村田新八は、智仁勇の三徳を兼備したる士なり。諸君宜しく斯人を模範と為すべし』と。十年の役、軍議ある毎に、諸将会するや、隆盛先づ問て曰く『新八在らざる乎』と、西郷の為に推重せらるゝや、此の如し」と評している。勝海舟は「彼は大久保利通に亜ぐの傑物なり。惜哉、雄志を齎(もたら)して非命に斃れたることを」と評している。
村田は平生、美術を愛し、また音楽を好んだ。家にいるときはいつも風琴(アコーデオン)を携え、容易に手を離さなかったという。


篠原国幹誕生之地


鹿児島中央高校南側(鹿児島市加治屋町10番1号)
 薩摩国鹿児島城下平之馬場町中小路で篠原善兵衛の子として生まれる。諱(名)は国幹、通称は藤十郎、冬一郎という。少年時代に藩校・造士館に入って和漢学を修め、ついで藩校の句読師となり、長じてからも和漢の典籍を読むことを好んだ。剣術ははじめ薬丸兼義に薬丸自顕流を、次いで和田源太兵衛に常陸流を学んだ。また馬術・鎗術・弓術も極め、文武両道を兼ねていた。
 篠原は戦闘部隊を指揮する場合でも大声を発せず身振りだけで指揮したといわれる。


西南の役官軍戦没者慰霊塔


鹿児島市清水町;祇園洲公園内
 西南戦争で亡くなった戦死者は、全部で13240人余りである。 その内、薩摩側が6400余人・官軍側が6840余人。 亡くなった数では、同じくらいの人が、亡くなっているのである。 ここにある、西南の役官軍戦没者慰霊塔に刻まれた人の出身地を見てみると、青森・岩手・福島・熊本など他にも、県外の名前を数多く見ることとができる。
 西南戦争100周年の際にこの地に慰霊塔をつくることになり、中村晋也巨匠によるモニュメントが作られた。
 「同地には1270余人が埋葬されている。 もとは官修墓地として墓石が整然と並んでいましたが荒廃が激しく、1955年(昭和30年)地下納骨堂に合葬され、西南戦争100年に際して慰霊塔が建てられました」 と説明板にある。

僧月照墓


照国山 南洲寺;南林寺町
月照(げっしょう、文化10年(1813年)- 安政5年11月16日(1858年12月20日))は、幕末期の尊皇攘夷派の僧侶。名は宗久、忍介、忍鎧、久丸。
文化10年(1813年)、大坂の町医者の長男として生まれた。
文政10年(1827年)、叔父の蔵海の伝手を頼って清水寺成就院に入る。そして天保6年(1835年)、成就院の住職になった。しかし尊皇攘夷に傾倒して京都の公家と関係を持ち、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したため、大老の井伊直弼から危険人物と見なされた。西郷隆盛と親交があり、西郷が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死しようとする西郷に殉死を止めるように諭している。
安政5年(1858年)8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷と共に京都を脱出する。そして薩摩藩に逃れたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し、日向国送りを命じる。これは、薩摩国と日向国の国境で月照を斬り捨てるというものであった。このため、月照も死を覚悟し、西郷と共に錦江湾に入水自殺した。月照はこれで亡くなった。 享年46であった。


西郷隆盛蘇生の家


国道10号線 仙巌園(磯庭園)より
姶良町方面へ約1km 花倉という地点
 (鹿児島市吉野町9798-1)
西郷隆盛が幕末の勤王僧月照と相抱いて入水し、西郷だけが息を吹き返し蘇生した家である。
尚古集成館前から日豊本線に沿って、国道10号線を北へ約一キロメートル行くと、左手線路わきに小さなわらぶきの家がある。 これが西郷隆盛蘇生の家だ。西郷は、京都清水寺成就院の、住職月照といっしょに死のうとして鹿児島湾にとびこみ、西郷だけ助かった。 1858年(安政五年)冬のことである。
安政5年(1858年)8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷と共に京都を脱出する。そして薩摩藩に逃れたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し、日向国送りを命じる。これは、薩摩国と日向国の国境で月照を斬り捨てるというものであった。このため、月照も死を覚悟し、西郷と共に錦江湾に入水自殺した。


島津啓次郎之墓


啓次郎率いる『佐土原隊』は、熊本の各地を転戦しますが、薩軍側は次第に劣勢となり、薩軍の田原坂の戦いでの大敗北により、啓次郎は佐土原隊と共に佐土原に撤収。その後、単身上京し、つてを頼って隆盛の助命や事態の打開に務めましたが、うまくいかずに郷里、やむなく再度薩軍に合流、可愛岳、三田井、椎葉、米良、小林を転々とし、同年9月24日、城山にて戦死。享年21。


増田宗太郎墓


増田 宋太郎(嘉永2年2月23日(1849年3月17日) - 明治10年(1877年)9月)は、中津藩下士増田久行の嫡男。母は九州国学の三大家の一人、渡辺重名(しげな)の娘。父は福沢百助の妻のいとこ。
 西南戦争に薩軍側として従軍、中津隊を率いた。和田峠の戦いで敗れた後、西郷が解軍の令を出し、故郷へ帰る隊もある中、西郷に付き従った。司馬遼太郎も著書で引用した「1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある」とは増田の言葉である。最後は城山の戦いで戦死したとも捕えられて斬首されたともいう。


中津隊士之墓


中津隊は,西南戦争に西郷軍側に呼応した不平士族の部隊。明治10年(1877年)現在の大分県中津市において増田宗太郎を中心とした旧中津藩士によって結成された。 この中津隊が決結成されたのは3月31日。熊本方面では薩軍が田原坂を突破され、さらに衝背軍が上陸して北上している時期です。 見方によっては薩軍の敗北が決定的になった、といってもいい頃である。
その時期に中津隊を結成し、中津城を襲撃し、大分城を攻めるも失敗し、熊本で戦っていた薩軍のもとへ向かったと言う事は、彼らに金欲や権力欲などの私心などは全く無かったと断言できる。
彼らは熊本協同隊と同じく、民権論を主張していました。その志の高さはどの党薩隊よりも高く、周りから後続扱いされましたが、各地で奮戦した。


辺見十郎太墓


辺見十郎太は嘉永2年、鹿児島荒田町で辺見仲直の子として生まれた。名は昌邦、通称を十郎太という。身長は6尺(180㎝)あり、薬丸自顕流の達人であった。
 9月24日、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷隆盛・桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。途中で西郷隆盛が被弾し、島津応吉久能邸門前にて別府晋介の介錯で自決すると、跪いて西郷の自決を見届けた辺見らはさらに進撃し、岩崎口の一塁に籠もって交戦し、別府と差し違えて死んだ。
『西南記伝』三番大隊将士伝に辺見を評して「十郎太の軍に臨むや、驍悍猛鋭(ぎょうかんもうえい)、当たるもの皆摧(くだ)け、向かふ敵無し。官軍、十郎太の名を聞き、戦慄し、逡巡(しゅんじゅん)進まざるに至る。故を以て、士卒皆其部下に出でんことを願はざるはなかりし」という。


永山盛弘墓


天保9年(1838年)、永山休悦の第一子として鹿児島荒田町に生まれる。名は盛弘、通称は弥一郎という。
 明治10年(1877年)、中原尚雄の西郷刺殺計画を谷口登太から聞いた高木七之丞邸の会合に弥一郎も同席し、憤激したが、出兵するか否かを決した私学校本校での大評議では大軍を率いての上京に反対し、西郷隆盛・桐野利秋・篠原国幹の三将が数名の供をつれて上京し、政府に問罪すべきと主張したが、西郷の身を案ずる意見が強く、策は入れられなかった。出兵に応じない弥一郎を最初、辺見十郎太が説得したが不調に終わり、仲が良かった桐野の熱心な説得で漸く同意した。出陣の際には桐野利秋が総司令兼四番大隊指揮長となり、弥一郎は三番大隊指揮長となって、10箇小隊約2000名を率いた。
 政府軍が八代に上陸し背面に迫ろうとするに及び一隊を率いてこれに向ったが御船の戦いに敗れ民家に入り火を放って自刃した。明治10年4月13日没 享年40歳。


山野田一輔墓


山野田一輔は弘化元年に鹿児島西田で山野田嘉兵衛の第一子として生まれた。名は政養、通称は嘉惣次、彦助、のちに一輔という。明治10年(1878年)、薩軍が出兵を決するや、出兵に応じ、五番大隊(指揮長池上四郎)十番小隊長児玉八之進の斥候長となり、熊本に入った。4月21日に矢部浜町で編制替えがあったとき、奇兵隊一番中隊長となった。9月21日、山野田は河野主一郎とともに軍使となり、参軍川村純義に西郷救命の交渉をしに行ったが、聞かれず、河野は抑留されたが、23日に山野田は城山へ帰った。9月24日、政府軍の総攻撃を受けた薩軍将士40余名は西郷洞窟前に整列したのちに岩崎口に進撃した。途中、被弾した西郷の自決を見守ったのち、山野田ら残余の将士はさらに進撃し、岩崎口の一塁に籠もって交戦した。このとき山野田は岩崎口の塁にのぼるや、従容として切腹した。


別府晋介墓


明治10年(1877)、私学校本校の大評議で出兵に決すると、別府は加治木・国分・帖佐・重富・山田・溝辺郷の兵を募って六番大隊・七番大隊(この2大隊は装備が古く、人数も少なかった)を組織し、その連合指揮長となって先発北上した。
9月24日(城山陥落の日)、西郷の洞前に整列した40余名は岩崎口へ進撃し、途中、銃弾で負傷した西郷が切腹を覚悟すると、晋介は駕籠から下り、「ゆるしゃったもんせ」(お許しください)と叫び、西郷を介錯した。その後、弾雨の中で自決した。享年31。
『西南記伝』に別府晋介を「天資俊爽(しゅんそう)、言語明晰、胆気人に過ぐ、其陣に臨むや、強を挽き、駿を躍らせ、堅を摧(くじ)き、鋭を陥れ、輒(すなわ)ち身を以て衆に先ち、向ふ所前なかりしと云ふ」と評しているが、近衛将校のときに給料を配下の将校と平等に分け合ったという逸話も残っていて、欲のない公平な人柄を偲ばせる。


村田新八墓


南洲墓地;篠原国幹墓の左隣
9月24日、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷隆盛・桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。途中で西郷が被弾し、島津応吉久能邸門前にて別府の介錯で自決すると、跪いて西郷の自決を見届けた村田らはさらに進撃し、岩崎口の一塁に籠もって交戦した。このとき村田も戦死した。享年42。
『西南記伝』二番大隊将士伝に村田新八を「新八、人と為り、状貌魁偉、身長六尺、眼光炯々(けいけい)人を射る、而も挙止深沈にして大度あり。西郷隆盛曾て篠崎五郎に謂て曰く『村田新八は、智仁勇の三徳を兼備したる士なり。諸君宜しく斯人を模範と為すべし』と。十年の役、軍議ある毎に、諸将会するや、隆盛先づ問て曰く『新八在らざる乎』と、西郷の為に推重せらるゝや、此の如し」と評している。勝海舟は「彼は大久保利通に亜ぐの傑物なり。惜哉、雄志を齎(もたら)して非命に斃れたることを」と評している。
 村田は平生、美術を愛し、また音楽を好んだ。家にいるときはいつも風琴(アコーデオン)を携え、容易に手を離さなかったという。また、和歌も漢詩もつくる才人で、多くの作品や書簡が残っている。


篠原国幹墓


南洲墓地;西郷隆盛の墓の左隣
明治10年(1877年)、弾薬庫襲撃事件と中原尚雄による西郷刺殺計画を聞いた篠原は政府問罪の師もやむなしとし、2月6日に私学校本校で行われた大評議では出兵に賛成した。出兵に際しては池上四郎が募兵、篠原が部隊編制、桐野利秋が各種軍備品の収集調達、村田新八が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練を担当した。2月13日の大隊編制では、桐野が総司令兼四番大隊指揮長、篠原が副司令格の一番大隊指揮長となった。
 3月4日、政府軍が吉次本道から薩軍を攻撃したので、篠原は外套を被り、銀装刀を揮い、陣頭に立って部隊を指揮した。このときの赤裏の外套が目印となって政府軍の狙撃を受けて戦死した。享年42。
 明治10年、西南戦争に、一番隊長として参加し、戦死、西郷は遺体を前に「お冬どん」と泣き崩れ、悲観にくれたそうです。


桐野利秋墓


南洲墓地;正面にある西郷隆盛墓の右隣。
一きわ名前の彫が深いのが目を引く。
 西南戦争後、桐野は全ての戦争責任を負わされ、西南戦争を引き起こした張本人としての評価を受け、「無思慮な人物」、「無教養者」、「荒くれ者」などという悪名高いレッテルを貼り付けられました。
俗に西南戦争のことを「桐野の戦争であった」と称されることがありますが、これは余りにも桐野にとって酷な話だと思います。
西南戦争は、桐野一人が原因で起きた戦争でないことは歴史の事実ですし、また、桐野一人が戦争を起こそうと考えたとしても、あれだけの大規模な戦争を起こせる訳もないのです。
西南戦争が起きた原因は、西郷隆盛を始め、桐野利秋、篠原国幹、村田新八などの薩摩軍関係者、そして、大久保利通を中心とする政府関係者、いずれにも少なからず責任があるのです。


私学校跡


現在の国立南九州病院敷地内
1874年(明治7年)、下野した西郷隆盛により旧鹿児島城(鶴丸城)厩跡に設置された学校で、その費用は「私学校」という名前とは裏腹に、県の予算より支出された。
教務は主に漢文の素読と軍事教練にあった。設立の真の目的は不平士族の暴発を防ぐ事にあったとされる。そのため入学できるのは士族、それも元城下士出身者に限られた。
 私学校は「国家のため、天下のため、自らの命を投げ出して、正義を貫く人間をつくる」ことを目的とし、銃隊学校、砲術学校、陸軍士官養成のための幼年学校から構成された。


大警視川路利良誕生地碑


鹿児島市街より十数キロ離れた、皆与志町比志島地区
川路 利良(かわじ としよし、1834年6月17日(天保5年5月11日) - 1879年(明治12年)10月13日)は、江戸時代後期の幕末から明治時代初期の警察官僚・陸軍軍人。
通称は正之進。雅号は竜泉。名は当初「としなが」と名乗っていたが、後に「としよし」と改名したようである。階級は大警視、陸軍少将(軍職を兼ねる)、位階勲等は正五位勲二等。欧米の近代警察組織の骨格を日本で初めて構築した日本警察の父。西南戦争開戦後、川路は警視庁警視官で編成された別働第3旅団の旅団長(陸軍少将)として九州を転戦、激戦となった3月の田原坂の戦いでは警視隊から選抜された抜刀隊が活躍して薩摩軍を退け、5月には大口攻略戦に参加した後、6月には宮之城で激戦の末、薩摩軍を退けて進軍するが、その後旅団長職を免じられ東京へ戻る。
ちなみに、川路の銅像は鹿児島県警本部前に建立されている。


陸軍火薬庫跡碑


鹿児島市草牟田
 国道3号線草牟田橋東口交差点より約150mの地点。
 現在の草牟田墓地入口。
 明治10年1月29日、政府は鹿児島県にある武器・弾薬を大阪へ移すために、赤龍丸への搬出を秘密裏に行った。 鹿児島の火薬庫にあった火薬・弾丸・武器・製造機械類は旧薩摩藩時代に藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えていた私学校徒は、この秘密裏の搬出に怒り、夜、草牟田火薬庫を襲って、弾丸・武器類を奪取した。 この夜以後、連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きた。
この報を聞いた西郷は「ちょしもたー」(しまった)と言葉を発したという。
西南戦争勃発の近因となった事件である。


別府晋介君誕生地碑


桐野利秋誕生地より約100m
 弘化4年(1847年)、鹿児島吉野実方で別府十郎の第二子として生まれる。名は景長、通称を晋介という。長兄は別府九郎。 従兄の桐野利秋(中村半次郎)とは実の兄弟以上に仲が良かった。
明治10年(1877)、私学校本校の大評議で出兵に決すると、別府は加治木・国分・帖佐・重富・山田・溝辺郷の兵を募って独立大隊(後に六番大隊・七番大隊)を組織し、その連合指揮長となって先発北上した。
9月24日(城山陥落の日)、西郷の洞前に整列した40余名は岩崎口へ進撃し、途中、銃弾で負傷した西郷が切腹を覚悟すると、晋介は駕籠から下り、「御免なったもんし(お許しください)」と叫び、西郷を介錯した。その後、弾雨の中で自決した。桐野利秋と同じ方限で生まれる。


贈正五位桐野利秋君誕生之地碑


鹿児島市吉田町
 市街地より薩摩吉田IC方面への県道16号線上の大明ケ丘団地入口交差点より左折し約500m程行った実方神社付近。
天保9年(1838年)12月、鹿児島郡吉野村字実方で城下士の中村与右衛門(桐野兼秋)の第三子として生まれる。諱は利秋、通称ははじめ半次郎、桐野姓に復姓してからは信作。初め中村半次郎と称し、明治になってからは旧姓にもどって桐野利秋と称した。
天資豪邁で粗略があり、武芸に長じた。文久2年島津久光に従って入京し、朝彦親王の守衛となり、他藩の志士と交わり、元冶元年禁門の変には大いに戦い、これより西郷隆盛に認められるようになった。
 明治10年西南戦争が勃発すると、四番大隊長となって熊本城に向い総指揮長となって軍事で指揮したが、各地で敗戦を重ね、兵士も激減(およそ300~400)した。西郷と共に鹿児島に帰り、薩軍は政府軍の包囲を突破して城山に拠るが、9月24日官軍が城山への総攻撃を開始し、主だった幹部が戦死もしくは自刃した。桐野も城山の岩崎谷で頬を打ち抜かれて戦死した。


南洲翁開墾地遺跡碑


寺山公園
鹿児島市街より東北へ約10kmの吉野台地にある
遣韓論に破れて帰郷した西郷隆盛は、明治6年から2年後の明治8年4月、吉野開墾社を設立した。
旧藩時代の牧場を大山綱良県令から払い下げを受け、元陸軍教導団の生徒150名とともに開墾事業を始めた。
西郷も武村の自邸からからせっせと通い、生徒とともに鍬を振るったという。およそ39ヘクタールを開墾したと言われている。


南洲墓地より桜島を望む


明治10年(1877年)9月24日、官軍の総攻撃によって西郷隆盛以下藩軍が全滅し西南戦争が終結すると、鹿児島県令岩村通俊は官軍の許可を得て西郷隆盛らの遺体を鹿児島市内5か所に仮埋葬した。
明治12年(1879年)、有志によってそれらの墓を現在地にまとめて改葬し、その後、九州各地に散在していた西郷軍の遺骨も集めて計2023名が葬られる「南洲墓地」となった。


西郷隆盛墓



南洲墓地;鹿児島市上竜尾町
中央が西郷隆盛墓
左は桐野利秋墓
右は篠原国幹墓
南洲墓地には
西南戦争で戦死した西郷隆盛はじめ2,203名の将士が眠る


西郷隆盛終焉の地


鹿児島市城山 場所的には私学校跡地の裏手になる
説明文より
-波乱の道、ここに尽きる-
「ズドン、ズドン!2発の銃弾が西郷隆盛の大腿部を打ち抜きました。城山洞窟を出て、わずか、300m、650歩でついに途を閉ざされたのでした。「晋どん、もうここらでよか」東を向き、皇居に伏し拝む西郷に別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされました。1877年(明治10年)9月24日のことでした。西郷を敬愛する私学校生徒を中心に強大な反政府勢力となった薩軍が、2月15日に50年ぶりの豪雪をついて熊本に軍を進めて以来、7ヶ月も続いた「西南の役」が終わったのでした。
熊本城の攻防、田原坂の激戦に破れ、人吉から宮崎、延岡に追われた薩軍はついに解散しました。西郷以下の幹部は宮崎県北の可愛岳(えのだけ)を突破し、九州の中央山脈を縦走する難行軍の末、故郷、鹿児島を死に場所に選んだのです。岩崎谷に銃声がやみ、西郷の死体が発見された時、政府軍の総司令官・山県有明(ありとも)中将は「翁はまことの天下の豪傑だった。残念なのは翁をここまで追い込んだ時の流れだ」と語り、いつまでも黙祷したということです。」
午前9時、城山の戦いが終わると大雨が降った。雨後、浄光明寺跡で参軍山縣・旅団長ら立ち会いのもとで検屍が行われた。西郷の遺体は毛布に包まれたのち、木櫃に入れられ、浄光明寺跡に埋葬された(現在の南洲神社の鳥居附近)。このときは仮埋葬であったために墓石ではなく木標が建てられた。木標の姓名は県令岩村通俊が記した(『西南戦争と県令岩村通俊』)。明治12年(1879年)、浄光明寺跡の仮埋葬墓から南洲墓地のほぼ現在の位置に改葬された。


西郷隆盛洞窟


鹿児島市城山町19、城山公園中腹
説明文より
-西南戦争 最後の司令部-
「1877年(明治10年)9月24日、午前4時政府軍の城山総攻撃が始まりました。城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。これを囲む政府軍は何重もの柵をめぐらし、その数4万。死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間過ごしたこの洞窟を出ました。桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。この日の西郷の出立ちは妻のイトが縫ったしまの単衣に白い兵児帯。ゆっくりと岩崎谷を下ります。その時流れ弾が西郷の腰に命中。別府の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じたのです。
西南戦争というのは、不平士族の反乱のあいつぐ中、台風の目というべき西郷を慕う私学校の生徒たちが、政府の挑発によって引き起こした暴動が始まりです。首謀者の引渡しか全面戦争か、その結論を出したのは「おはんらにやった命」という西郷の一言でした。2月15日、ついに挙兵。熊本で政府軍と激しい攻防を繰り返すも近代兵器の前に敗退。7ヶ月に渡る大乱の最後を西郷は故山城山で迎えたのです。」


明治十年戦役薩軍本営跡の碑


城山公園 「城山ドン広場」
公園駐車場から売店を通っていくと「城山ドン広場」に着く
この城山は西南役最後の戦場です。
8月17日、宮崎県長井村(現・延岡市)で包囲された薩軍は西郷自ら筆を執り解散令を出します。この解散令により党薩諸隊や負傷兵などが降伏しました。しかし、血気盛んな者達は降服を潔とせず、「最後の一戦を交える」、「囲みを破って再起を計る」などと言って聞きません。西郷はじめ幹部達は議論し「官軍の重囲を突破して再起を計る」に決定します。 同日17日の夜に長井村の後方にある可愛岳を突破し、上祝子方面へ消えていきました。官軍はあと一歩という所まで薩軍を追い詰めましたが、一瞬のスキを突かれ水泡に帰しました。 この可愛岳突破以降、険しい九州山脈を越え、官軍の追っ手を蹴散らしながらこの鹿児島の城山まで帰ってくるのは9月1日です。日付から見ると約2週間、約400キロの道のりです。現代人の我々には想像がつかないほどの強行軍だったと思います。
8月30日、横川を出発した薩軍は官軍の追っ手を巧みに誘い出し、或いは牽制しながら南下していきます。薩軍は隊を3隊に分けて、溝辺へ向かいました。しかし、ここにも官軍が陣を構えて薩軍の行方を捜していました。すでに官軍は軍艦で鹿児島に上陸し薩軍の行方を追っていたのです。この戦争の勝敗を決したのは「海軍力の差」と言っていいでしょう。官軍の予想以上の攻撃に薩軍は一計を案じ、溝辺と加治木の間道を通り吉野街道へ出る作戦に出ました。残る別働隊はこの地で官軍を牽制しながら、しかる後に合流することにしました。
8月31日、これが功を奏し、薩軍は吉野街道へ進出し、花棚や帯迫(鹿児島市、旧・吉野町)まで来ることができました。ここにも官軍が陣を構えて行方を捜していました。薩軍は迂回して伊敷へ向かい、城下へ入ろうとします。この日の攻防戦は薩軍の勢いが激しく、どちらが追捕されているか分からない状態だったと云われています。可愛岳突破以降、幾多の困難を切り抜けてこの地まで帰ってきたのです。彼らが奮い立つのも当然のことだったでしょう。
9月1日、薩軍は勢いに乗り、敵を蹴散らしながらついに城下に突入しました。官軍は仰天し、米倉(現在の鹿児島市役所)で防戦します。その間にも溝辺方面から進んでいた薩軍の別働隊が、郡山街道(日置郡)を経由して甲突川を越えて城下に入りました。
翌2日、薩軍はこの城山、私学校、島津邸、県庁などに陣を構えます。さらに前日の戦いで新撰旅団から頂戴した大砲を新正院などに配置し、砲撃を始めました。


明治十年戦役官軍屯営跡


鹿児島市役所敷地内 市役所通り歩道沿いに建(この地は当時「米倉」と云われていた。)
説明文より
「ここ市役所本館敷地は、幕末には薩摩藩の米蔵があった場所です。明治10年に起こった西南戦争の際には官軍の本営が置かれました。明治10年9月1日、熊本、宮崎など各地で敗戦した薩軍が鹿児島に突入し、市街地をほぼ制圧。官軍はこのためこの本営を守るだけとなりましたが、9月3日には官軍が増援され形勢を逆転。城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐しました。反撃に出た薩軍は9月4日、貴島清率いる決死隊が米蔵を夜襲。しかし、急遽駆けつけた三好重臣率いる第二旅団に阻まれ、貴島以下決死隊は一掃去れました。その後官軍は9月6日、城山包囲網を完成させ、9月24日の官軍総攻撃によって西南戦争は終結を迎えました。」


幼年学校趾跡


鹿児島市照国町 照国神社の境内
(島津斉彬公之像の真向かい)
後方にある駐車場は「戊辰駐車場」
説明文より
「幼年学校(賞典学校)趾
 明治7年(1874)6月、西郷隆盛はこのあたり一帯に仕官養成のための幼年学校をつくりました。この学校は西郷隆盛、桐野利秋、大山綱良らの明治維新の功績に対する賞典録10万石をもとにつくられたもので賞典学校とも呼ばれました。
 篠原国幹監督のもとに漢学を教えた久木田泰蔵、洋学を教えた元大学南校(現東京大学全身)教師の深見有常、外人教師シケーベル(オランダ人)コップス(イギリス人)らの講師が教育にあたりました。この学校では、外国留学の制度を設けて、明治8年に木尾満次、救仁郷哲志、日高正雄3名を、翌9年には、野津伝之丞、柏原正一郎の2名を留学させました。また、庄内(山形県鶴岡地方からの2少年(伴兼之、榊原正治)もこの学校に学びました。」


鴻巣台公園


番所跡から約400m行った所
説明文より
一週間に渡る「茶屋の辻の戦い」がこの地域で展開されたと・・・中でも「鬼ヶ城の切り通し」「鴻巣台」「茶屋辻番所付近」では熾烈な白兵戦となったと・・・さらに、5月26日この樹を挟んで一日中激しい銃撃戦があり、この地域では今でも鉛の銃弾が出土する・・・」
とある。


西南役激戦地 鴻巣台地 の碑


番所跡から鴻巣台公園に至る途中
碑文より
「5月26日、薩摩軍は鴻巣台一帯に後退し、手当たり次第に墓石を倒しバリケードとして政府軍に対峙した。一夜明けて両軍とも朝霧が深く立ち込めて互いの行動は判別できず、警戒しながら交戦した。それでも政府軍は損害をものともせず薩摩軍に肉薄して竹林や雑木林火を放ち、山火事を起こさせて対抗し、漸く薩摩軍を敗走させることができた。薩摩軍及び報国隊は北東の亀甲台地へ退却するに至った。薩摩軍はこの時多くの戦死者並びに負傷者収容した。戦死者はとりあえず、亀甲台地の洞穴かくして退却した。この夕刻政府軍は間髪を入れず茶屋の辻の両方にある民家に放火して薩摩軍の夜襲抜刀隊の切込に備えた。」とある。


西南の役激戦地 番所跡と千人塚の碑


竹田市茶屋の辻にある番所跡
竹田市総合運動公園を見下ろす高台
碑文より
「5月28日、薩摩軍は亀甲台地の陣地から退却。ここ番所より左手方向(胡麻生峠方面)、右手方向(上角口)に別れる。政府軍はそれを追って右手方向へ突進、魔の凹型道路(右手断崖地壁、左手谷底、前方上り城)にて一戦するも左手方向へ逃げた薩摩軍が戻り応戦した。
夜間の切り込み戦の為、両軍の死者の数おびただしく、遺棄された薩摩軍の戦死者は番所脇に埋葬され小高い山となった。これが千人塚である。地元の人は耳塚といって昭和初期まで供養していた」
とある。

西南の役激戦地 亀甲台地の碑


竹田市総合運動公園
野球場のスコアボード裏手の高台
碑文より
「五月二十六日、この台地に布陣する薩摩軍・報国隊は戦闘力も弱まり玉砕を決意した。 夜十時より二十七日午前四時にかけて谷をはさんだ鴻巣台地の政府軍に向かい三波に及ぶ壮絶な切込みを敢行した。政府軍の死傷者は四、五十名にのぼった。 この夜の戦いで茶屋の辻一帯の民家は両軍の放火によって消失してしまった。」
とある。


西南戦争薩軍山田宗賢墓


三国峠第二塁跡
薩軍は竹田が陥落した後、小野市まで退却します。その後、三重市を奪回するために三国峠、旗返峠、梅津越を占領して行動を開始します。三重市で官軍と激戦を繰り広げましたが失敗し、各峠に布陣して守りを固めました。
以後、6月12日からこの峠一隊で攻防戦が続き、多くの死傷者を出しました。戦況は一進一退でしたが、14日に梅津越が陥落すると均衡が崩れていきます。17日、この三国峠に構えていた薩兵は連日の激戦により寝静まっていました。官軍はその隙を逃しません。音を立てずに薩軍陣地に近づき突撃を開始、薩軍は寝込みを襲われて陣を守ることが出来ず小野市、重岡方面へ敗走していきました。旗返峠に守っていた薩兵も三国峠の陥落により撤退・・・豊後口進出の目標が潰えた。


三国峠


三国峠は、大分県南部の豊後大野市三重町と佐伯市宇目(旧宇目町)との間にある峠で、最高地点の標高は664m。日本の百名峠、大分百景、及び、みえまち観光12名所に選定されている。
江戸時代に臼杵藩、岡藩、佐伯藩の3藩の境界に当たったことから、三国峠という名が付けられた。西南戦争では、激戦が行われた地のひとつで、薩摩軍の陣地を示す標柱や兵士の墓碑が残され、戦死者を祀る三国神社が建立されている。
案内板より
「…明治十年(1877)西南戦争に際して、西郷軍は三国、旗返峠の天候に拠って官軍に激しく抵抗した。しかし、六月十七日、官軍の猛攻をささえきれず戦死者の遺体を残して小野市、重岡方面に退却した。西南戦争後、旧塁に戦死者を祀る墓が建立され三国神社として信仰をあつめた」 とある。
三国峠へは、三重町中心部から国道326号線を南下、奥畑トンネル出口先より左折。 三国峠越えの峠道(旧道)へと入り、急坂な狭い道を進み登りつめた所。
山頂までは車で行けない為、途中で車を止め徒歩で行かなければならない。


三国神社「戦死者之墓」



墓石には
 明治十年六月十七日
 日向飫肥士族十一名之墓
 三国峠○○
と刻まれている。